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【TOPに聴くVol.2/前編】技術、経営者感覚、縁の結び方…。
全ては「知的好奇心」から!

日本パルス工業株式会社

取締役 統括本部長
 小柳出 文峻(おやいで ふみたか)氏


【企業プロフィール】
パルストランスの開発・製造・販売会社。
1960年創業のジェーピーシー株式会社から、
産業機器用トランス部門を分離独立させて同社を設立。
国内唯一のパルス部品専門メーカーを謳う。
この分野のスペシャリストを自認し、
パワーエレクトロニクスに関わるあらゆる企業の技術アドバイザーとして、
各方面から頼りにされている。
〒177-0045 東京練馬区石神井台7-26-17
TEL 03-3594-2111


※コム・ストーリーでの制作実績/シャログ、現在企画中<総合カタログ・Webサイト>

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遊園地生活がモノづくり人生の原点?


「小学生の時、モータを作ろうと思ったんだ。
原理も何もわかんなかったけど、カタチだけでも真似てみたくて、写真屋に行って使い終わったフィルムの軸をもらってきて、そこに電器屋で買ってきた銅線を巻きつけたりしてね…」


小柳出(おやいで)は、子供の頃、向ヶ丘遊園地内に住んでいたという。
一時期、大工だった祖父が遊園地のオープン時、園内の建物を請け負った。
ところが依頼主に逃げられ、お金も払ってもらえず、やむなくそこに住み着いたらしい。
細かな経緯は定かではないが、遊園地で育つという夢のような体験が、動くモノ、動かす原理に興味を向かわせたのであろうか。


モータ好きの少年の心を射止めたのは、中学・高校の科学部。
当時、アマチュア無線が流行っていた。
興味が増して、資格を取ろうと思い立つ。
ちょうどその頃、中高生でも受けられる電話級アマチュア無線技士(現・4級アマチュア無線技士)が創設され、高校に入学したばかりの4月に友人と2人で受験する。
10問中8問正解だったら受かると言われ、8問だけ書いて試験会場を出た。
友人共々合格したのだが、相当、自信があったということだろう。
部内には無線局もあり、また、機械好きな部員も多く、刺激的な毎日であった。


1年先輩に発信回路を自分で組んでいた人がいた。
小さくて立体的なデザイン(どんぐり型真空管とも呼ばれる)の特殊な真空管を使っていた。
エーコン管というのだと教わり、それが気に入った。
見た目にもひかれたが、あまり難しいことをしなくても電波が出せると直感。
見よう見真似で作っていたが、思えばそれがマイクロウェーブとの出会い。
100~500メガヘルツくらいの電磁波を出せていたようだ。


こういうことが面白くて電子工学に進みたいと思ったが、お前の成績じゃあ受からないと言われ、仕方なく応用物理学を学ぶことに。
学生時代に感銘を受けた先生は2人。
電子顕微鏡の世界で著名な谷先生と、原子核物理学の武藤先生。
どちらも東大の研究所の所長をされていた方だが、気さくで、当時、家に出入りさせてもらうのも普通のことで、非常に可愛がっていただいた。
谷先生は工学系でもあり、話が本当に面白かった。
もっとも、勉強よりはみんなで山中湖へ行って、東大の助手だった人とボートで競争して勝ったとか、そんな思い出ばかりであった。


技術の基礎と、度胸を学ぶ


何とかカツカツで卒業できたものの、1966年という東京オリンピック後の不況の時代。就職は厳しく、食べていくためプラスチックの成型屋に3~4年勤める。

そのうち、大学時代の友人の義理の父親が経営している、磁場関係の仕事に誘われる。
そこで磁気探傷の仕事に就くが、磁気を測定するためにガウスメータを使っていた。
ものすごく微小なパルス磁界を拾う必要がある一方、傷を探すために流す電流は5000アンペアとか13000アンペア。この経験が後で効いてくる。


1972年、初心者マークが導入されることになった。
車にピタッと貼り付けるために、ゴムに磁性材料を混ぜ込んである。
その装置製造に会社が名乗りを上げ、設計を任されることになった。
据え付けは営業の仕事であったが、調整は設計担当の役目。
その時に、とにかく様々な大手企業を回った。
日産、日野、トヨタ、日立、三菱、富士重工、新日鉄、川鉄…。
更に、磁気探傷装置などの設計も手掛けるようになった。
磁性にかかわるものは、実はいろいろなところで使われていて、通常では立ち入れない現場にも出向くことになる。
新幹線の車両とか、航空機とか、航空自衛隊の鹿屋基地にも行った。


微小信号、大電流、大電圧、大電力など、今につながる技術の全てをこの時期に学ぶ。
おまけに、度胸も。
居並ぶ大企業の、エンジニアの面々が相手である。
横で見ていて、技術も盗ませてもらったし、経験を重ねるうちに物怖じしなくなり、技術者として対等に向き合うことができるようになる。
テーマを与えられた結果、自分で責任もって考え、最後まで解決していくクセもついた。
これが20代の後半。
かくして、妙に老成した、経験豊かな若き技術者が誕生したのであった。

高周波電源の開発に孤軍奮闘


技術が身に付き少し余裕が出てくると、人は『次』を考えるようになる。
世の中、これからは半導体だな、という想いにとらわれる。
そんな折、付き合いがあった日電アネルバ(現キヤノンアネルバ)の下請け会社の社長が誘ってくれた。
最初の仕事は真空計の設計であったが、そこでも微小信号を増幅するという経験が役に立つ。


仕事でアネルバに入り浸っているうち、ひょんなことからアネルバブランドの高周波電源の開発を頼まれることになる。
高周波の電力装置はまだ真空管を使っていたが、半導体化への気運が高まっていた。
その担当者と懇意にしていて、アマチュア無線の話などしていたら、白羽の矢が立ったのである。

後から聞けば、ある大手電源会社との協業話も進んでいたらしいが、なぜか蹴って小柳出に決まった。
勝手に予算をたてて申請し、社長に「この金額でやらせてください。お願いします!」と言ったら、「わかった」と。
有無を言わせず始めてしまった行動力を買われ、コスト的にも得だと思われた、といったあたりが真相なのだろうが。


ところが、半導体といっても、実際は経験があるわけではない。
例えば「どんなトランジスタがあるんだろう」というようなところから始めざるを得ない。
資料を取り寄せ、フランスのトランジスタ(当時)が使えそうだと思って輸入商社に聞いてみたら、ある大手企業がレーダー用の設計のために、500個輸入したことがあるという話を聞き出した。


それが、TH430というトランジスタで、何と今でも使われている。
当初、3万5千円もしたのだが、壊れやすいからと100個くらい買ってきて、社長に目をむいて怒られた。
本人は、日本にこれを広めるきっかけになったのは私だと、自慢げではあるが…。


とにかく一事が万事、がこんな具合。
アマチュア無線をやっていた時代に、自分で回路を調べたり、探したり、調査したりすることが身に付いていて、何もかも自分でやった。
今みたいに、インターネットなどというツールがあったわけではない。
手で、足で、知恵で、人脈で。


そんな調子だから1年で終わるはずもない。開発のみで2年を費やした。
その結果、高周波と送り出す電力のマッチングをうまく処理することができ、耐久性に優れ壊れにくい装置を造り上げることができた。
今だに動いているらしいと聞けば、技術者冥利に尽きるというものであろう。


同時期に、高圧電源の開発も頼まれるなど、アネルバとの関係は深まっていった。
ちなみに、当時のアネルバテクニクス(現・キヤノンアネルバテクニクス)の設計担当が、今は取締役になっていて、「俺、お前」という付き合いをしている。


経営者発想で異を唱える


ところで、小柳出が所属していた会社では、半導体の製造設備関連が売り上げの90%を占めていたが、事業としては波が大きくリスクが高い。
違う分野で柱を作り経営の安定化を図るべきでは、という懸念を抱くようになる。


一技術者であった小柳出が、経営者感覚を身に付けていたのには訳がある。


話は遡るが、磁場の会社を辞めてこの仕事に移る際、少し休もうと3カ月の猶予をもらった。
家でのんびりしていた、夏のある暑い日のこと。
大阪の、全く面識も無い会社の社長から突然電話がかかってきた。
「ウチの会社困っているんだけど、助けてくれませんか」と。
大手重工メーカーからある装置を1500万円で受注したという。
ところが1年経っても完成せず、そのうち経営も厳しくなって技術者が途中で投げ出してしまった。
助けを求め片っ端から声をかけていたら、小柳出が辞めた会社と取り引きがあった商社が「適任では」、と紹介してくれたのだという。


装置について根堀り葉堀り聞き出すと、何とかなるような気がした。
技術者魂を刺激され、引き受けたはいいが、これが現地に行ってみるとタイヘンな仕事。
とても3カ月では終わらない。
新しい勤め先は週6日制。
日曜日の朝一番の飛行機で大阪へ飛び、作業をして最終便で戻る、という生活を半年続けた。
苦労はしたが何とか完成させ、以来、その社長とは家族ぐるみで付き合っている。


その人は関西大学の商学部出身で、経営感覚・金勘定に優れていた。
小柳出との縁を見事に結べたように、人脈を上手く使うことにも才覚を示した。
昨年(2007年)のこと、そろそろ引退したいからと小柳出に相談があった。
結局、小柳出のつてで、工場と家を居抜きで買い取ってもらった上、得意先も引き継いでもらい、会社の名前も残し、おまけに自分もその工場で働いている。


この人から、経営感覚というものを学びとっていた小柳出は、自社の社長に詰め寄る。
「半導体に偏っていてはダメだ。3本くらい柱を立てなければ」
だが、聞きいれてはもらえなかった。
覚悟を決めての進言であったから、「ならば辞めるよ」ということになる。
7年ほどこの会社にいて、42歳になっていた。
結婚して子供もいたが、次のあてはなかった。


そんな折、仕事上の付き合いがあった日本パルス工業(以下、日パル)から、
「若い技術者のお父さん役として、ウチに来ないか」と誘いがあった。
アネルバの設計担当が薦めてくれたらしい。


トランスなんて、原理原則もわからなかった。
が、この業界は将来性があると思った。
飛躍的なものはないが安定性があるし、ビジネスとして着実に伸びていけると勘が働いた。
企業としては信頼できたが、確かに若い設計者ばかり。
小柳出のチャレンジ精神に、またまた火が点いた。
平成元年のことであった。

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<写真:展示会/CEATECにて>

〈後編に続く〉

2008年04月28(月)