【TOPに聴くVol.1/その2】50台半ば、モヤモヤ人生にピリオドを打つ
-株式会社ダステック 吉田社長-
株式会社 ダステック
代表取締役社長 吉田 俊治(よしだ しゅんじ)氏
★その1は、11月3日付けでアップ
〈写真:製作中のダステック若手社員〉

モヤモヤを抱えた流浪の日々
砥石で切る、というスゴイ技術にひかれてディスコに入社したものの、イザ仕事を始めてみても、心は「半導体の開発」に残ったままであり、自分の中で整合性がとれない。当時、成長著しいディスコは海外進出にも力を入れており、語学力を買われた吉田は、シンガポールを皮切りに、スイス、ドイツ、アメリカと5年ほど海外の拠点を転々とする。
海外と言えば花形イメージがあるが、技術者としての赴任で、仕事のメインはアプリケーションやサポート。モヤモヤは募るばかりであった。
帰国すれば、本社での技術の進化は目を見張る勢い。まさに浦島太郎状態で、仕事が無い。
吉田をディスコに誘ったK氏が見兼ねて、アメリカ拠点のマネジメントをやらせようということになった。
ところが根っから技術者の吉田、マネジメントの意味すらわからない。
そもそも、経歴からいっても組織という感覚が無いに等しい。
当時は、K氏が自分に期待することさえ理解できずにいた。
挙句、机に座っての仕事は苦痛でたまらず、日本に返してくれと直訴する。
今度こそ、と巻き返しを期する吉田に与えられたのは、新規で立ち上げた機械の評価。
ところがこの機械、トラブル続きでレポートするにもデータが取れない。
吉田が造ったものではなかったのに、回り回って責任を負う形となって降格され、子会社であるT社へ異動となった。
ここで遭遇したのが、現ダステックで厳然と輝くDAS-W65に連なるスライシングマシン(切断機)であった。
解散か独立か
T社は、これらの機械を使っての加工がメインであり、機械の製造・販売は風前の灯火という状況にあったが、モノづくりに飢えていた吉田には格好の標的であった。勝手に設計・製造に着手し、あれこれ工夫するうちにチョコチョコ注文が来るようになる。
例えば、某メーカーはいろいろなものに組み込める小さなTVを開発していたが、これを自動で製造できる機械が欲しいと相談された。
スライシングマシンとは無関係に思える仕事であったが、この技術を応用して造り上げ納品する。
また、ブラウン管から次の技術へという時代の流れの中で、液晶の面取り機など需要も増えていた。
いつしか吉田の胸の中のモヤモヤは、なりを潜めるようになる。
スライシングマシンは面白かった。
よそで断られた案件、特殊な案件が次々持ち込まれ、それに応えていくことに没頭する。
T社は当初の予定通り加工専門会社となり、吉田を中心とするスライシングマシンのチームはディスコに戻されていた。
が、2001年の4月、「もうこの仕事はいいだろう」と宣告される。
チームの仕事は、お客様には喜ばれていたが研究・開発機ばかり。
量産機にまでは踏み込めずにいた。
売上的には、右肩上がりのディスコからすれば微々たるもの。
市場を定めるという戦略からずれば、整理すべき部門と判断されるのも仕方のないことであったかもしれない。
しかし、吉田は納得いかなかった。
世の中に求められている技術である、という自負があった。
やっと見出した、自分が邁進できる道でもある。
レポートを書き、談判をし、続けるべきだと言い張った。
「会社の金でやろうと思うから簡単に続けようというのだ。それだけ言うなら、自分の資産を投入する覚悟はあるのか」
内心では「エーッ」と思ったが、言いだした手前、引き下がるわけにいかない。
「オレも人生を賭けている」と、何度も何度も呼び出されては交渉を重ねた。
その年の8月。今日で結論を出そう、ということになった。
「お前は、資産を差し出してまでやろうというのだな」、と念押しされる。
この時、吉田の気持ちはまだサラリーマンであった。
自分のヤル気を試しているだけだと思っていた。
最後に社長から「お前、やっぱりやめろ」と言われても、「続けたい」と押し切る。
オレ、本当に社長になるのかなぁ
これにより、サイは振られたのである。「わかった、やろう」ということになる。
「組織を切り離すから」と言われた。
(吉田「どうせ、社内ベンチャーだろう」)
「で、どういう組織にするんだ」
(吉田「やるか、やらないかばかりで、組織のことは頭になかったなぁ」)
「分社化するが、資本はどうする」
(吉田「分社化? 資本?」)
「わかりました」と答えた吉田だが、実は何もわかっちゃいなかった。
それどころか、その時でさえ、まだたかをくくっていた。
会社がなんとかめんどうみてくれるのだろう、と。
だが、少し様子が違うなとは思った。
この時になって初めて「会社」というものを勉強しだし、エライことだとは思ったが、船は港を出てしまっている。
何十回も迷った挙句、相談できないでいた家族に、この時ようやく打ち明けた。
まだ、学校に通う子どもがいたし、ローンも残っていた。
家族会議が開かれ、もちろん全員大反対。
「もう決まっているのに…」と思いつつ、頭を下げるのみであった。
資本金の拠出という段になっても、吉田は1銭も出せない状況であった。
「サラリーマンだから、右から左に出せる金は無い」と居直ってもいた。
「じゃあどうする」ということになり、まだ1年足りなかったが、55歳から適用の早期退職金制度を利用させてもらえることになる。
2000万円の資本金の内、49%はディスコ。
51%にあたる1020万円については、吉田の退職金がそのまま充てられることになった。
資金のめどは立っても、肝心の人が集まらなければ会社とは言えない。
チームには20数人がいたが、海のものとも山のものともわからない組織である。
むやみに声をかけることもはばかられる。
かといって、精鋭集団である必要はある。
熟慮の果てに、6人に勝手に白羽の矢を立て拝み倒した。
もちろん独立の話は伝わっていたし、築いた技術を生かす道を選ぶのか、ディスコで新たな仕事を覚えるのか、それぞれに考えていたには違いない。
断られないだろうという楽観的な気持ちもあったが、大丈夫という確信もなかった。
事前に根回しなどできる吉田ではない。不安はもちろんあった。
6人が6人とも即答、承諾であった。
うれしかった。奇跡じゃないの、と思った。
6人がどんな気持ちでOKしてくれたのか、未だに恐くて聞けないでいるが…。
こうして2002年1月1日、ダステック株式会社は、まずは内海へと漕ぎ出した。
この時、後から思えば、船頭である吉田の自覚はまだ薄っぺらであった。
手続きに必要な書類は、ディスコの総務が手伝ってくれた。
事業所は、品川にあったディスコ本社の一角を貸してもらう。
向こう3年間、吉田を除く社員の給料について、ある程度のめんどうをみてもらえる約束も取り付けた。
救世主、現わる
しかし、最初の関門が間もなくやって来る。当たり前だが、機械を開発・製造し売るためには、日々の活動費が必要である。
設立から1年過ぎた頃、このままではまずいと気付く。
銀行から借りるにも、実績が乏しい。
ディスコに相談するも、そんな無計画な申し出が受け入れられるわけはない。
ここに救い主が登場する。
ディスコに出入りしており、事情を知っていた某銀行の担当者が、金を貸そうという話を持ってきた。
吉田の自宅を担保にすること、東京信用保証協会から保証を取り付けることを条件に、2000万円借入の段取りをしてくれたのである。
ところが、吉田はこれを株主であるディスコに了解を得ることなく、独断で借りてしまった。
当然問題になったのだが、この件をディスコの会長が「アイツは本気だ」と評価してくれ、いつの間にか「吉田の好きなようにやらせておけ」という話になった。
吉田側からすれば、いよいよ見放されたか、という気持ちであったが。
2004年、ディスコの本社移転に伴い、現所在地、埼玉県戸田市に移る。
ぼちぼちと実績を築いてはいたが、資金が潤沢にあるわけではない。
ましてや、ディスコからは近く完全独立する約束をしていたわけだから、あせりはあった。
そんな時、吉田の心を透視していたかの如く、またもや例の救い主が現れる。
頼んだわけでもないのに、である。
「いい話があります」と言う。
「社債発行により、1億円融資できます」
吉田が書いていた必要なレポートも、途中からはその人が引き受けてくれた。
とんとん拍子に話が進み、吉田はただ一度、日比谷に出向いただけで、後は、その人が全てめんどうをみてくれた。
吉田は、ただ熱く語っただけであった。
吉田、決断の時-そのてんまつ
この時であった。吉田が、この事業に人生を賭けるしかない、と定めたのは。
胸の奥底にしまっていた、「半導体への未練」を完全にぬぐい去ったのは。
1億円という大金への責任というよりも、自分を買ってくれたその人が、吉田の背中を押してくれたのである。
後に、その人が吉田のところへ挨拶に来た。
銀行をやめたのだと言う。
それは、「あなたを見ていたからだ」と言うのであった。
その人の奥さんの実家は事業をしていた。
― 前から後を継いで欲しいと言われていたが、決断ができないでいた。
うじうじ悩んでいた時に、あなたに巡り合った。
あなたが前を向いてがんばっている姿を見て、自分も決心したのです ―
その人が、そもそも吉田のことを気に掛けるようになったのは、
「ディスコの会長が吉田を買っているらしい」
という話が、漏れ伝わったことが発端ということであった。
誰かが見ていて、真っ当な評価をしてくれる。
その評価をきっかけに、違う誰かが支援をしてくれる。
支援された本人は、本気の決断をする。
その決断に励まされ、新たな決断が事業を存続させる。
最初に評価してくれた人は、そんなつながりを露も知らないのか、はたまた、仕組んだことであったのかは定かではないが、きっと笑って見ているのであろう。
2005年7月29日、ダステックはMBO(マネジメントバイアウト※)により、ディスコからの完全独立を果たす。
もう、進む先は外海しかない。
50代も半ばからの、波乱の人生であった。
※子会社の経営陣や事業の責任者が、株主から株式や営業資産を買い取るなどして独立すること
〈その3に続く〉
2007年12月07(金)






